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街道での危機 ②

last update Last Updated: 2025-05-17 22:51:32
「エレナ、早く峠を越えよう」

 リノアは緊張を滲ませながら言った。

 その時、足元の地面が微かに揺れた。

 リノアは反射的に歩を止め、エレナと視線を交わす。

 それは、ほんのわずかな揺れ──

 しかし、それだけで空気の張り詰め方を変えるのは十分だった。

 風の音が強まる中、二人の間に沈黙が落ちる。

 リノアは息を整え、もう一度峠の先へと視線を向けた。

 胸の奥に沈んでいた違和感が次第に輪郭を持ち始めてくる。

──この感覚は一体、何だろう。大地の中の何かが静かに息を潜めているかのような……

 風が激しさを増し、背後の木々が二人を急き立てるようにざわめき立てている。

 とにかく前へ進もう。それ以外に選択肢はない──

 足元の岩肌がむき出しになった坂道を二人は迷いなく踏み出した。

 道はすでに崩れかけている。

 リノアが地面に足をつく度に細かな小石が崖下に転がり落ちていった。その軌跡を追うように流れていく細かな砂粒──

──早く、この場から離れなければ。

 リノアは瞬時に判断し、走り出した。

 エレナもリノアの後に続く。

 乱れる呼吸、吹き荒れる風の轟き──すべてが混ざり合い、世界が騒然とした音に包まれる。

 しばらく走っていると、峠を越えようとする旅人たちの姿が前方に見えた。彼らも異変に気付き、焦るように足を速めている。

「気をつけろ! 崩れるぞ!」

 誰かの叫ぶ声が聞こえた。

 その瞬間──

 雷鳴のような音が響き渡り、崖の一部が崩れ落ちた。

「走れ!」

 旅人たちが一斉に駆け出す。

 岩が崩れ落ちる音が背後から聞こえたかと思うと、瞬く間に視界を奪い去った。

 砂塵が舞い上がり、前方を覆ったのだ。

「くそっ、前が見えない!」

 誰かの声がかき消されるように風に巻かれる。

 リノアはその声を頼りに視線を向けたが、舞い上がる砂塵の中で影しか見えなかった。

 ここで足を止めれば、そのまま飲み込まれてしまう──

「走って! 立ち止まったら危ない!」

 リノアは咄嗟に近くにいた旅人の腕を掴んで、荒れた道を駆け抜けた。

「リノア、こっち。道を塞がれる前に駆け抜けて」

 エレナは息を荒げ、力強く言葉を発した。

 だが、その直後、轟音が響き渡った。大地が揺れ、岩が滑り落ちる音が背後に迫る。

 先ほどとは比べ物にならない大きな音……。

 崖が崩れ、岩が猛然と滑り落ちてくる。

「逃げて!
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